20080413 アンテオケ教会の誕生
使徒の働き11章19−30節
前の段落で、エルサレムのユダヤ人教会は、異邦人(ユダヤ人以外)にもキリストの福音を語る事が、神の御心だと理解するに至りました。
その経緯を新年礼拝で「非難・沈黙(或いは安堵)・賛美」と題して語らせていただきました。
私は、あれから三ヶ月沈黙を余儀なくされましたが、今朝は皆さんと賛美の中へ戻りました。
皆さんの執り成しの祈りに、心から深く感謝しております。
さて、選民意識の強いユダヤ人集団であった教会にとって、ともかく大きな進歩でした。
しかし、未だ、積極的に異邦人宣教が始まったわけではありません。
異邦人を教会の片隅に置く事を許容したに過ぎません。
19節には「ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった」と説明されています。
それでも、異邦人への福音宣教は、着々と準備が進められていました。
これを実行したのは、ヘレニスト(ユダヤ人ですがギリシャ文化の中で育った人々)たちです。
信者の中に「キプロス人とクレネ人(彼らはデアスポラ・ジュー、各地に離散していたユダヤ人と考えられます)が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝え」始めました。
外国の文化の中で育った人々は、外国人に対して偏見が少なく、比較的公平な目を持つ故です。
こうして、世界で初めの異邦人教会が、シリヤのアンテオケに誕生しました。
T アンテオケの事情
アンテオケは、アレキサンダー大王の死後、四分割された帝国の一つ、シリヤのセレウコス王朝の首都です。
同名の都市が王朝内の各地にあります。聖書では、ピシデヤのアンテオケが知られています(使徒13:14)名前にも特別な意味があったのでしょう。しかし、今日では不明です。
BC64年には、ローマの総督府がここに置かれていました。
このアンテオケは、ローマ、アレキサンドリアに次ぐ、帝国第三の都市として繁栄していました。
アンテオケの人口は、当時50万以上、周辺を含めると80万人ともいわれる大都市でした。
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